2009-04-27

なお、すでに知られているように、当時の京都語のアクセント体系では、同一の語源をもつ単語のアクセントは少なくとも第一アクセントだけは同一であったとされている(金田一春彦氏の研究)。従って、一つの語のアクセントを知れば、他の語のアクセントを推定できる場合が少くない。例えば、小舟(ヲブネ)のアクセントが名義抄によって、上上○と知られれば、小(ヲ)のアクセントは上であるから、それによって、小笹(ヲザサ)、小塩山(ヲシホヤマ)、小倉山(ヲグラヤマ)、小忌(ヲミ)などの第一音節「ヲ」は、すべて上のアクセントであることが知られる。

また、今日の東京アクセントでは「起きない」のオは、オナイとなって低いが、「起きた」の場合はキタとなって高い。このように一つの動詞でも、活用形によって動詞の第一アクセントが変ることがある。しかし、当時の京都アクセントでは、同じ語ならば、第一音節のアクセントは活用形によって変わることがない。例えば「起く」という動詞ならば、「起きず」の場合でも、「起きたり」の場合でも、いずれもオは平声である。このように、動詞・形容詞などの終止形の第一アクセントが上ならば、活用形の如何を問わずその語の第一アクセントは上であり、終止形の第一アクセントが平ならば、活用形の如何に関わらずその第一アクセントは平であったから、終止形のアクセントを知れば、他の活用形の第一アクセントは知ることができる。

(大野晋『仮名遣と上代語』岩波書店、1982年、p. 22)

2009-04-23

琵琶法師

金田一春彦『四座講式の研究』(三省堂、1964年)という本(玉川大学出版部「金田一春彦著作集」第五巻所収)によれば、真言宗や天台宗に伝わる仏教音楽である声明《しょうみょう》のなかでも、日本語の歌詞を持つ「講式」という種類の声明は、古いもので鎌倉時代末期の日本語のアクセントをかなり正確に伝える資料となるという。

講式の譜は、歌詞の各仮名の横に「|」「\」「―」のような形をした節博士《ふしはかせ》という記号を付けた体裁をしている。これがその仮名を詠む際の音程を表しており(この記号の意味は講式の流派によってそれぞれ違っている)、それにより講式が作られた当時のその語のアクセントがわかるわけである。この話はすごく面白いのでそのうちまたあらためて書いておきたい。

琵琶法師の弾き語りにはまさか譜に相当するものはないだろうが、こういう中古中世の音韻の痕跡のようなものは残っていたりするのかな。

2009-04-20

「~ずなりぬ」「~てやみぬ」

今までどうも「~ずなる」には複数の使われ方があるなあ、とは薄々思っていて、出くわすとよく考えてみたりしてたんだけど、よく見たら『古代日本語文法』にちゃんと書いてあった。

「~ずなりぬ」には、「今までしていたことをしなくなった」の意と、「最初から最後までしないままになってしまった」の意とがあります。(31) は前者、(32) は後者です。

  • (31) 船の人も見えずなりぬ。(土佐)
  • (32) 楫取、「今日、風、雲の景色はなはだ悪し」と言ひて、船出さずなりぬ。(土佐)

(小田勝『古代日本語文法』おうふう、2007年、pp. 67-68)

前者は現代語の「~なくなる」と同じなんだけど、後者に該当する簡潔な表現は現代語にはない(と思う)。

簡潔な現代語にしにくい似たような表現として、「~てやみぬ」というのもある。これもなんか無理矢理落ちを付けたような文みたいで、不思議な感じがする。

  • くらうなりて、物くはせたれどくはねば、あらぬものにいひなしてやみぬる、つとめて(p. 31)
  • つれなきもいとねたきを、今宵あしともよしともさだめきりてやみなむかし。(p. 103)
  • 夜ふくるまでつけわづらひてやみにしことは、(p. 104)
  • 「則光なりや」と笑ひてやみにしことを、(松尾聰、永井和子著『枕草子[能因本]』笠間書院、2008年、p. 198)
  • 「さては、一人をうらみ給ふべきことにもあらざなるに、あやし」といへば、その後はたえてやみ給ひにけり。(p. 222)
  • つねにおぼえたる事も、また人の問ふに、きよう忘れてやみぬるをりぞ多かる。(p. 291)

(特に明記しているもの以外、池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、1962年。)

あれ、意外にも「~てやみぬ」で終止する文はないな……。本居宣長も使ってるんだけど、それの印象が強かったせいか?

こたつといふ物のうた

しはすばかり、これかれあつまりて、埋火を題にて、哥よみける日、今の世のこたつといふ物をよめと、人のいひければ、

むしぶすまなごやが下のうずみ火にあしさしのべてぬらくしよしも、とよめりければ、みな人わらひてやみぬ

(本居宣長著、村岡典嗣校訂『玉勝間』上、岩波文庫、p. 101)

ああ枕草子がやりたかったんだなあ、という感じの乙女ノリ。おふざけのくせに歌は「むしぶすまなごやが下に臥せれども妹とし寝ねば肌し寒しも」という万葉集の歌を下敷きにしているというマニアックさはさすがだ。

2009-04-16

三巻本と能因本との違いの例

先日紹介した枕草子の落窪物語に言及している箇所について、訳を作る参考にしようと能因本底本のほうもちょっと見てみたのだけど、するとここは三巻本とは文がちょっと違っているところであった。

三巻本底本の岩波文庫版からの引用をもう一度載せる。

雨は心もなきものと思ひしみたればにや、片時降るもいとにくくぞある。やむごとなきこと、おもしろかるべきこと、たふとうめでたかべいことも、雨だに降れば、いふかひなくくちをしきに、なにか、そのぬれてかこち来たらんがめでたからん。

交野の少将もどきたる落窪の少将などはをかし。昨夜・一昨日の夜もありしかばこそ、それもをかしけれ。足洗ひたるぞにくき。きたなかりけん。

(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、1962年、pp. 320-321)

これに対して、能因本底本の笠間文庫版はこうなっている。

雨は、心もとなき物と思ひ知りたればにや、時降るもいとにくくぞある。やんごとなき事、おもしろかるべき、たふとくめでたかるべき事をも、雨だに降れば、言ふかひなくくちをしきに、何かとて濡れてかこちたらむが、めでたからむ。げに、交野の少将もどきたる落窪の少将などは、足洗ひたるは、にくし。きたなかりけり。交野は馬のむくるにもをかし。それも、昨夜、一昨日の夜ありしかばこそ、をかしかりけれ。さらでは、何かは。

(松尾聰、永井和子著『枕草子[能因本]』笠間書院、2008年、p. 329)

なかなか興味深い違いだと思うんだけど、どうだろう。僕はまだ笠間文庫版を最初から通しては読んでいないので、この部分だけの印象で語ってしまっては危ないけれど……。

能因本の「心もとなき」とか「かこちたらむ」のあたりはちょっとあやしいよね。「こころもとなし」の「待ち遠しくて心がいらだつ。じれったい。/気がかりだ。不安だ。/ぼんやりしている。はっきりしない。/不十分でもの足りない。」という意味は(旺文社『全訳古語辞典』第三版)、文意からするとそぐわないし、「かこちたらむ」は「文句を言うのが云々」じゃなくて、やっぱり三巻本の「かこちきたらむ」すなわち「文句を言いながら来るのが云々」となってないと言い足りてない。「交野は馬の云々」は脚注にも「不審」となっていて、意味がわからなくなっているのが残念だ。

しかし、どちらも全体で言っていることまで違っているわけじゃないよね。かといって、書写の段階で生まれるようなバリアントではあり得ない。ここにいろいろと想像を巡らす余地があるわけで……。定説によれば、能因本系統のほうは清少納言が後になって書き改めたバージョンではないかということになっているそうで。他人がこういう書き換えを実践する動機もないだろうというわけだろう。このあたりの研究もなかなか面白そうなところ。

2009-04-12

古文の話ができれば文章の論理的展開などどうでもいいのか

昨日木曜日の記事を読み返したら、わけわからんこと書いててびっくりした。

原文は「雨は心もなきもの」になってるのに、それを自分で「不実を知るもの」と訳しおいて、さらにその訳文のほうを引っ張ってきて「身を知る雨」の解説をぶちあげている。我ながらちょっと狂気を感じるな、これは。

「心なし(心無し)」は、ここでは「人情を解さない。思いやりがない。つれない」でなくて、「情趣を解さない。風流心がない」の意(旺文社『全訳古語辞典』第三版)。

木曜の記事は修正。「なにか、そのぬれてかこち来たらんが云々」のところで「身を知る雨」の話に結局つながるので、全体として言ってる情報はほとんど変わらず、助かった。

2009-04-09

交野の少将もどきたる落窪の少将などはをかし

落窪物語は、枕草子にもその名が見えている。

雨は心もなきものと思ひしみたればにや、片時降るもいとにくくぞある。やむごとなきこと、おもしろかるべきこと、たふとうめでたかべいことも、雨だに降れば、いふかひなくくちをしきに、なにか、そのぬれてかこち来たらんがめでたからん。

交野の少将もどきたる落窪の少将などはをかし。昨夜・一昨日の夜もありしかばこそ、それもをかしけれ。足洗ひたるぞにくき。きたなかりけん。

(池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫、1962年、pp. 320-321)

拙訳。

雨は風情のないものとの思い込みがあるからだろうか、少し降るだけでも嫌なものである。高貴なこと、明媚なこと、尊くめでたいことも、雨が降ってしまえばそれだけで台無しになってしまう。男が文句を言いながら濡れてやって来るところがいいなどと、どうしていうのであろうか。

交野の少将を非難していた落窪の少将などはまあ例外である。とはいえ、それも前夜、前々夜があってのことで、足を洗ったりなどしてひどいものである。不潔だ。

雨の日に濡れながら男がやってくるのがいいというのは、「身を知る雨」といって、雨が降ると男がめんどくさくなって女のもとに来なくなる。それで「ああ、その程度の愛情だったのか」と女が「身の程を知る」という、そういう当時の通念みたいなものがあった。そこから来ている。雨にも負けず男が来るのというのが、当時の(一部の)女性たちにとっての憧れのワンシーンみたいになっていたのだろう。そういう阿呆な幻想に対して異を唱えているわけである。落窪の少将(男君)は雨の夜に女君のもとに通ってきたが、それは三夜続けて通って結婚が成立する、その大事な三夜目だったからいいのだと。

参考歌。

かずかずに思ひ思はず問ひがたみ身を知る雨は降りぞまされる(古今和歌集、恋 4)

『蜻蛉日記』に、作者道綱母とその夫兼家との切れそうで切れない関係を表す鍵として、この身を知る雨というのがたびたび出てきたように思う。あとで見つけたらここに載せよう。道綱母は兼家に見捨てられたと思って悲しんだり怒ったりするのだが、兼家が嵐の日とかに突然やってくると、(それが兼家のご機嫌取りの作戦だとわかっていながら、)なんだかんだいって内心嬉しくて浮かれたりするのである。人間ってバカだよね。

「足洗ひたる云々」の話はまた後日。

2009年4月12日追記。なんかむちゃくちゃな展開の文章になっていたので修正。

2009-04-06

落窪物語エンディング

物語の一番最後のくだり。だらだらと続けてきたけど、落窪物語の話は今回でひとまず終わりということにする。

三の君を中宮の御匣殿《みくしげどの》になんなしたてまつり給へりける。

師《そち》は任果てて、いとたひらかに四の君の来たるを、北の方うれしとおぼしたり。ことわりぞかし。かく栄え給をよく見よとや神仏もおぼしけん、とみにも死なで七十余《よ》までなんいましける。大い殿の北の方、

「いといたく老いたまふめり。功徳を思ほせ。」

との給《たまひ》て、尼にいとめでたくてなし給へりけるを、よろこびのたびいますがりける。

「世にあらん人、まゝ子にくむな。まゝ子なんうれしき物はありける。」

との給て、又うち腹立ち給時は、

「魚《いを》の欲しきに、われを尼になしたまへる。産《む》まぬ子はかく腹ぎたなかりけり。」

となんの給ける。死に給て後もただ大い殿のいかめしうしたまひける。衛門は宮の内侍になりにけり。のちのちの事はつぎつぎいで来べし。

この少将の君たち、一よろひになんなりあがり給ける。祖父《おほぢ》おとゞ亡せ給にけれども、

「われ思はば、ななし落としそ。」

と返ゝ《かへすがへす》のたまひければ、わづらはしくやんごとなきものになんおとうとの君をば思ひ給ける。左大将、右大将にてぞ続きてなりあがり給ける。母北の方、御さいはひ言はずともげにと見えたり。師はこの殿の御とくに、大納言になり給へり。面白は病まひおもくてほふしになりにければ、おとにも聞こえぬなるべし。かの典薬助《てんやくのすけ》は蹴られたりしを病まひにて死にけり。

「これ、かくておはするも見ずなりぬるぞくちをしき。などてあまり蹴させけん。しばし生けて置いたべかりける。」

とぞをとこ君の給ける。女御の君の御家司《けいし》に和泉守《いづみのかみ》なりて、御とくいみじう見ければ、むかしのあこき、いまは内侍のすけになるべし。典薬助は二百まで生けるとかや。

(新日本古典文学大系18『落窪物語 住吉物語』岩波書店、1989年、pp. 290-292、一部表記を改める。)

拙訳。

(男君は)三の君を御匣殿の女房としてさしあげた。

筑紫の師《そち》がその任を終えて四の君も無事京に戻り、北の方は胸をなで下ろす。無理もないことである。こうして一族が栄えていくありさまをとくと見よとの神仏のはからいであろうか、七十をこえてなお達者であった。

「ずいぶんとお年を召されましたね。功徳をお考えにならなければ」

女君はそうおっしゃって北の方を立派に出家させて差し上げた。北の方はそれにいたく感激して

「世の中の人、まま子憎むな。まま子はありがたいものであるぞ」

とむせび喜んだ。かと思えば、腹の立つことがあると

「魚が食べたいのに、私を尼にしてくれて。腹を痛めて産んでない子はなんと意地の悪いこと」

などとおっしゃるのであった。亡くなられた後も、男君が立派な葬儀をお出しになった。衛門は宮の内侍になるが、その後のことはまた追々語ることとしよう。

少将の君たち(男君の子供たち)はお二人そろって位を極めていった。祖父の大臣《おとど》は亡くなられたが、

「わたしに孝行したいなら、くれぐれも次郎君をおろそかにはしてくれるなよ」

と常日ごろ繰り返しおっしゃっていたので、弟君には男君も格別の気を遣われ、兄弟は左大将、右大将とたてつづけに昇進したのであった。女君のお幸せといったら言わずもがなである。筑紫の師は男君のおかげで大納言へとなられた。面白の駒は病をこじらせて法師になったきり、あとの行方はようとして知れない。典薬助といえば、蹴られどころを悪くして、それがもとで死んだという。

「こうして立派になった女君の姿を見ずに死んだとは。あんなにひどくいじめることもなかった、もう少し生かしておくべきであったな」

と、男君は残念がった。和泉守は女君の家司となり、熱心にお勤めして差し上げたという。そのおかげで、むかしのあこきは、いまや典侍《ないしのすけ》となる。ところでかの典薬助だが、あるいは二百まで生きたともいうそうである。

二月には読み終えていたのだが、ここで紹介していくのに手放せなくて、地元の図書館でずいぶん長く借り占めてしまった。そういうわけで早く返さなきゃいけないと思い、上に引用した新体系本は、もう手元にはない。脚注をメモしておくのを忘れたせいで、和泉守云々の部分の訳が心許ないのだけど、ご容赦を。

とはいえ、それはそれとしても、このエンディングにはいろいろと気になる点がある。

一番の問題点はもちろん、典薬助についての後日譚がたがいに矛盾する内容で二回語られていることだ。これは古来議論の的になってきたらしく、写本のなかには末尾の「てんやくのすけ」を「たちはき」や「ないしのすけ」と書き改めているものもあるという。たしかにそう書き換えれば内容が矛盾するという問題は回避できる。新体系の解説によれば、定説になっていたのは「たちはき」とする解釈だそうだ。登場人物の後日譚が語られるこのエンディングで、準主役級の扱いだった帯刀について言及がないのもおかしいということだろう。その一方で、「たちはき」を「てんやくのすけ」と誤写するというのは考えにくい。その点では「ないしのすけ」、つまりあこきのこととする解釈のほうに分がある。

新体系はこれら旧来の説に挑戦するというような書きぶりで、ここに別の解釈をあてている。つまりここは字のまま典薬助のこととするのである。典薬助は死んだという噂がある一方で、実は生きていてしぶとく二百歳まで生きたとかいう噂もあったとさ、と意図的にぼかした後日譚としているというわけだ。

新体系出版からだいぶ時を経ている現在では、主流の解釈はどうなっているのかな。

ともかく、この説も説得力がある。原文をいくら読んでも決定的な証拠が見えないのがもどかしい。最後の文に、たったひとつ、たとえば「さらで」とか「げには」とかの副詞のひとつも入っていれば、こんな解釈の混乱を招かなかったろうにと思ってしまう。早々に解釈が混乱したということは、それはそれで元があんまりいい文じゃなかったということだ。

作者の身になって考えてみても、帯刀やあこきが二百歳生きたというよりは、怪人物めいた好色漢の典薬助が二百歳まで生きたという話を書いたと見るほうが自然かと思うけど……。

訳ではサボって曖昧に処理してしまったけど、原文に使われたり使われなかったりしている助動詞ケリの使われ方は、よく考えないといけない。どうしてここで使っていて、次の文で使っていなくて、その次でまた使っているのか。とくに末尾から二番目の「女御の君の御家司云々」のところとか。神は細部に宿るのだ。でもそれを考えてるとブログが書けなくなると思って今日は素通りした次第。

古典文学の作品の結び方には、いろいろと謎の含みがあって、その意図をこれと決定しがたいものが多い。枕草子にせよ、土佐日記にせよ、それぞれの作者にそれぞれの美学があって、結びとなればそれをもっとも凝縮した形でスタイリッシュに表して終えようという意志が働いているのだとは思うんだけど、それがかえって徒となり「外国人」である現代人にはどうもぴんとこないのだ。残念なことであるよ。

2009-04-02

書店について

ここ数年あんまり本屋に行かなくなってたんだけど、新宿に新しくできたブックファーストがなかなかおもしろいので最近ちょくちょく覗いている。前回の能因本枕草子なんかはその収穫。

昔は本屋は好きだったのに、今はなんか「売らんかな」という煽り文句ばかりが目について、どうもげんなりしてしまう。

源氏物語千年紀はあくまで去年の話だとばかり思ってたら、書店ではいまでも相変わらず盛り上がってるね。あちこちにそういうコーナーができていて、さまざまな新刊書が平積みで並べられている。こんなにたくさん新刊が出ていたら、源氏物語を読む暇がなくなっちゃうじゃないか。

昔の偉大なる天才的著作家を論じた書物が、次々とあらわれている。主題として選ばれる著作家は時によってさまざまである。ところで一般読者は、このような雑書を読むが、肝心の著作家その人が書いたものは読まない。それというのも新刊書だけを読もうとするからである。「類は友を呼ぶ」という諺のように、現代の浅薄人種がたたく悲壮陳腐な無駄口が、偉大なる天才の生んだ思想よりも読者に近いからである。

ショウペンハウエル著、斎藤忍随訳『読書について 他二編』岩波文庫、pp. 134-135